銀閣寺は燃えたことがある?金閣寺との火災歴の違い

銀閣寺が燃えたという話は誤りで、燃えたのは金閣寺(鹿苑寺)のほうです。

1950年(昭和25年)7月2日の未明、金閣寺では修行僧による放火事件が起き、国宝だった舎利殿(金閣)が全焼しました。この出来事が後に三島由紀夫の小説の題材にもなったほどの大事件だったため、「京都の名刹が燃えた」という印象が強く残り、銀閣寺との混同が起きやすいようです。

一方の銀閣寺(慈照寺)には、歴史上大きな火災の記録はありません。国宝の観音殿(銀閣)や東求堂は、室町時代に建てられたまま現在も残っています。つまり、今でも室町時代の建物を実際に目にできるのは、燃えていない銀閣寺のほうなのです。

この記事では、「銀閣寺は燃えたのか?」という疑問に正面から答えながら、金閣寺の放火事件の概要と、銀閣寺の火災歴の実態を整理していきます。

この記事でわかること
  • 銀閣寺に大きな火災の歴史はなく、室町時代の建物が今も現存している
  • 「燃えた」のは銀閣寺ではなく金閣寺(1950年の放火事件)
  • 金閣寺放火事件の経緯・犯人の動機と、現在の金閣が再建されたものである理由
  • 銀閣寺の前身にあたる浄土寺は応仁の乱で焼失した、という紛らわしい歴史の整理

銀閣寺が燃えたという話は本当?歴史上の火災をたどる

銀閣寺|臨済宗相国寺|京都

引用:銀閣寺公式サイト

「銀閣寺が燃えた」という話が気になって検索してきた方の多くは、金閣寺の放火事件の記憶と混同しているか、あるいは銀閣寺独自の火災歴があるのかを確かめたいのではないでしょうか。結論から先に整理しておきます。

銀閣寺(慈照寺)自体に大きな火災はない

銀閣寺の正式名称は慈照寺(じしょうじ)といい、室町幕府8代将軍・足利義政が1482年(文明14年)から造営を始めた山荘「東山殿」が起源です。国宝の観音殿(銀閣)と東求堂はいずれも室町時代に建てられたもので、現存する建物です。

歴史の記録をたどっても、銀閣寺の主要建築が火災で失われたという事実はありません。金閣寺のように「一度燃えて再建された」という歴史はなく、観音殿や東求堂はおよそ500年以上にわたって現地に立ち続けています。京都には応仁の乱やたびたびの戦乱で焼けた寺社が数多くありますが、銀閣寺(慈照寺)の主要な建物はそうした被害を免れているのです。

銀閣寺の観音殿と東求堂は国宝に指定されており、1994年には「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されています。

◎銀閣寺の歴史や建立の背景については、こちらで詳しく紹介しています。
銀閣寺を建てた人は誰?建立者は足利義政!何年に建てた?何のため?創建の理由や背景|京都・慈照寺

銀閣寺の前身がある場所は応仁の乱で焼失している

ただし、銀閣寺が建てられた土地の歴史には、一度「燃えた」という出来事があります。もともとその場所には天台宗の浄土寺という寺院がありましたが、1467年(応仁元年)から11年間続いた応仁の乱の戦火によって焼失しました。

義政はその廃寺の跡地に山荘「東山殿」の造営を始めます。つまり、銀閣寺が建てられた場所自体には焼失の歴史があるのですが、それは銀閣寺の建物が燃えたわけではなく、銀閣寺が建てられるよりも前の出来事です。「燃えた」という言葉との微妙な関係で混同が生じやすい部分でもあります。

義政の死後に荒廃・破壊されたが火事ではない

銀閣寺には別の「困難な歴史」もあります。足利義政が1490年(延徳2年)に亡くなった翌年の段階ですでに荒廃が始まっており、材木が持ち去られたり、建物が壊されたりしていたとされています。義政の死後80年ほどで完全に荒廃していた、という記録も残っています。

ただ、これはあくまでも「荒廃・破壊」であって、火事によって燃えたわけではありません。今私たちが目にしている銀閣寺は、参道や池の位置は当初と同じですが、建物や庭園は江戸時代以降の修復や改修を経たものです。「室町時代からずっと続いているが、当初の姿とまったく同じというわけではない」という点は覚えておくと、より正確な理解につながります。

燃えたのは銀閣寺ではなく金閣寺!あの放火事件の全容

銀閣寺|臨済宗相国寺|京都

引用:銀閣寺公式サイト

「銀閣寺が燃えた」という記憶の多くは、実は金閣寺の放火事件と混同しているケースです。昭和25年に起きたこの事件は、戦後の日本に大きな衝撃を与えた歴史上の出来事です。ここでは金閣寺放火事件の全容を整理しておきます。

1950年、国宝の金閣が放火により全焼

1950年(昭和25年)7月2日の午前3時ごろ、京都市北区にある鹿苑寺(通称・金閣寺)の舎利殿(金閣)が放火によって全焼しました。消防隊が駆けつけたときには炎が激しく燃え盛っており、手の施しようがない状態だったといいます。

この火災で失われたものは建物だけではありません。当時国宝に指定されていた足利義満の木像や観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など合計6点の文化財が同時に焼失しました。人的被害はありませんでしたが、国宝の建造物と文化財が一夜にして灰になったことは、当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。法隆寺金堂の火災に続く大事件として、全国に報じられています。

スクロールできます
項目内容
発生日時1950年(昭和25年)7月2日 未明
場所京都市北区・鹿苑寺(金閣寺)
被害舎利殿(金閣)全焼・国宝文化財6点焼失
犯人林承賢(当時21歳・同寺の徒弟僧)
判決懲役7年(同年12月)

犯人の動機と事件後の展開

放火したのは、金閣寺で修行していた21歳の徒弟僧・林承賢(俗名:林養賢)でした。舞鶴出身の彼は大谷大学で学びながら、金閣寺に住み込みで修行していました。

取り調べで語った動機は「金閣という美への嫉妬」と、自分の境遇の悪さに対して拝観にくる人々への反感だったとされています。放火直後、裏山に逃げ込んで自殺を図りましたが死にきれず、逮捕されました。同年12月に完全責任能力ありとして懲役7年の判決が確定しましたが、収監中に結核と精神状態が悪化し、釈放後の1956年(昭和31年)に26歳で病死しています。また、事件を受けた母親が引責自殺するという悲劇も重なりました。

犯行の動機が謎めいていたことと、金閣という美の象徴が炎に包まれたという事件の特異さから、のちに三島由紀夫が小説『金閣寺』(1956年)を、水上勉が『金閣炎上』(1979年)を著しており、いずれも文学作品として広く読まれています。

現在の金閣寺は1955年に再建されたもの

焼失した金閣は、1952年(昭和27年)から3年計画で再建工事が始まり、1955年(昭和30年)10月に落慶供養が営まれました。再建にあたっては、明治時代の大修理の際に作成されていた詳細な図面が残っていたため、外観をきわめて忠実に再現することができたとされています。

ただし、再建された建物は「新しく建てたもの」であるため、現在の金閣は国宝の指定を受けていません。金閣寺全体は世界文化遺産(1994年登録)ではありますが、舎利殿(金閣)の建物自体は国宝ではないという点は意外と知られていないポイントです。

なお、1955年の再建時に使用された金箔は工芸用に近い薄さのものだったため、紫外線で漆が劣化し、金箔が剥落するという問題が生じました。1986〜1987年(昭和61〜62年)には「昭和大修復」が行われ、前回の5倍の厚みを持つ特製金箔約20万枚が貼り直されています。これが現在目にしている、あの輝く金閣の姿です。

◎金閣寺の再建費や昭和大修復の費用については、こちらで詳しく紹介しています。
金閣寺は何円かかったの?建設費から昭和の修復費を解説!金箔と漆に込められた費用も紹介

今も室町時代の姿を残す銀閣寺と、再建された金閣寺

ここで改めて整理すると、興味深い逆転の構図があります。

金閣寺のほうが観光地として派手で有名なため「古くから続く歴史的建造物」というイメージを持たれがちですが、実際の建物は1955年の再建です。一方、地味で渋いと思われがちな銀閣寺の観音殿と東求堂は、火災にも大きな破壊にも遭わず、室町時代から500年以上そこに建ち続けている本物の建築物なのです。

銀閣寺と金閣寺はよく「金と銀のセット」として語られますが、建物の歴史という点では大きく性格が異なります。金閣寺は戦後の再建を経た建物、銀閣寺は室町時代そのままの建物。この違いを知っておくと、現地を訪れたときの見え方がかなり変わってくるはずです。

◎銀閣寺がなぜ銀色でないのか、名前の由来と歴史については、こちらで詳しく紹介しています。
銀閣寺はなぜ銀じゃない?銀箔を使わなかった理由と名前の由来、わび・さびに込められた美しさ

まとめ:銀閣寺が燃えた歴史はなく、燃えたのは金閣寺

最後にポイントを整理しておきます。

  • 銀閣寺(慈照寺)の主要建築に大きな火災の歴史はなく、観音殿と東求堂は今も室町時代のまま現存している
  • 「燃えた」のは金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿で、1950年(昭和25年)7月2日に修行僧による放火で全焼した
  • 現在の金閣は1955年に再建されたものであり、国宝ではない(世界文化遺産ではある)
  • 銀閣寺の建てられた土地にはかつて浄土寺があり、応仁の乱で焼失しているが、これは銀閣寺建造より前の出来事
  • 建物の「本物度」という意味では、再建された金閣より火災を免れた銀閣のほうが歴史そのものに触れられる

金閣寺と銀閣寺、どちらも京都を代表する名所ですが、その歴史の深さは少し異なります。「燃えた」という一言が気になって調べてきたなら、現地を訪れたときにその違いを実感してみてください。